2018/09/17
どうもこじらです。
ゲームってどんくらい才能が必要で、どの程度努力でカバーできるのかな?ってことを私はよく考えます。無駄な努力はしない方が自分のためですもんね。
今回は私がゲームをする上でよく考えていることを書いていこうと思います。
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ゲームの定義
まずはゲームの定義についてです。あ、RPGのような自分だけですべて完結できるゲームは除き、人と競い合いつつ自分を高めていくものを今回はゲームと呼びます。
ゲームにおいて必要な要素は
・入り込める世界観
・初心者でも上級者でも何かしらの目標が持てること
・ランダム要素が存在すること
・そのランダム要素を努力である程度カバーできること
が大切なのかなと思っています。
究極を言えば将棋やチェスなどもランダム性がないからゲームとして成り立っていないってことになります。究極ってのは言い換えれば必勝法ですね。将棋やチェスにランダム要素はないですが、必勝法が分からないからランダム性が発生していて、そのランダム要素をどれだけ補えるかがうまさだと思っています。ランダム要素を完璧にカバーできる人が現れたときにそのゲームは「クソゲー」になり廃れていくんだと思います。
ゲームはやりこまないと向き不向きが分からない
向き不向きが分からないのは何の分野においてもそうですけどね。日本だと才能ってのは存在せず、努力をすればなんでもできるみたいな論調の教育をされますが、絶対に才能はあります。
才能って何なんだろう?
才能がある人って何が違うんでしょうか。昔その能力を養う何かしらの経験があったのか、それともそもそも生まれた時点で携わっている能力だったのか。遺伝は最近だと記憶も引き継がれるだとか、意外にも先祖の色んな要素が継承されているって分かって来ましたよね。遺伝子という身体の構成要素だけでなく環境によって継承する要素もあります。親と同じ飯を食べて親の偏った考えを子供のころに押し付けられて育つんですから、かなり影響され親と似通ったものが出来上がります。親が政治家なのとサラリーマンなのじゃ全く別の人間になるってのは想像に難くないですよね。
そういった色んな要素が「才能」として現れる訳ですが、それを今現在の努力でどの程度カバーできるんですかね?ゲームはスポーツと似た部分が多く、「e-sports」という単語があるようにこれからゲームとスポーツの境界線はもっと小さくなっていくと思われます。ゲームもスポーツなのであれば、子供のころに培った能力はかなり重要で、大人になってからゲームを極めようとしても上達には限界があるはずです。ゲームにおいて重要な経験を他のところで培っていたとしても、それは自身では分からず、芽生えるかも分かりません。
才能は絶対にあるのにその程度が分からず、どの程度その才能が自分にあるのかも分からないって……この世界厳しすぎませんか?だれかシビュラシステムを開発してくれ。
プレイ時間と実力の相関
プレイ時間と実力には相関があるとされています。スプラトゥーンでも1000時間でS+だとかそういう指標があり、ネット上でよくそういう指標が使われていました。(スプラ2ではなく前作の方で)
↓プレイ時間と実力の変化は下のようなグラフになると思っています。
600時間と1000時間はあまり変わらないが全く違う
やり始めは操作の慣れによってすぐに上達していきますが、ある程度操作がうまくなりゲームの仕組みを理解し始めると、そこからはなかなか上達はしません。そのため、600時間ゲームをプレイした人と1000時間ゲームをプレイした人ではあまり差がないように感じます。しかし、その400時間の差は存在します。小さい変化ですがその差は大きく、それを軽視しているといつまでたっても二流止まりなのかなと思います。グラフにすると途中からは横に直線になっていますが裏では小さい数字が少しずつ上に伸びています。人と競い合うゲームだとこの小さい数字での差で戦うことになります。
何をもって成長しているんだろう?
600時間と1000時間の変化は小さいと言いましたが、ここの間の小さい変化は何が成長の要素になっているんでしょうか?操作の慣れや新しい発見など、細かいことの積み重ねで成長すると思いますが、ある日何かに気づき爆発することもあります。ある一定の実力まできたら爆発でしか成長しないのかなとも思います。その爆発は経験したことがない人には何なのか分からず、経験した人は経験していない人が何に気づけていないのか分からないはずです。分かっても言葉にするのは難しいものです。爆発が何なのかを探し続ける作業は孤独であり、たどり着けるかわからないものをひたすら探す作業であって、宇宙の中から一つの星を探し当てるようなことなんだろうなと思っています。
だからこそ才能は大きい?
才能っていうのは今までの経験でなっているのか、それとも探す作業を人よりもしていただけなのか、結局話が「才能が何なのか」に戻ってきます。小さい変化だからこそ、「才能」というものを強く意識してしまいます。努力でどうにかなるのか分からない、いつかいきなり気づく日が来るかもしれない、才能のせいですべてが無駄なのかもしれない……
もう考えてないでひたすらプレイしてろよと言いたくなりますけど、考えていないとプレイしてもうまくはならないんですよね。
最近よく思います。自分がやってるゲームが一番難しいって思えない人は、それはただやりこんでいないだけか頂点を極めたかのどっちかなんだろうなって。
まとめ
ゲームだけじゃなく自分を高めるという行為はまじで泥沼です。その点知識をひたすらため込むタイプの趣味って楽だなって思います。趣味なんだからそのことについてはよく考えますし、知識を蓄えただけで極めることに繋がるんですもんねぇ。
限界の分からないゲーム(趣味)に没頭してしまった人は泥沼にはまってしまったことを認識して、あるのか分からない「何か」をひたすら探し続けましょう。
何か読みにくい文章になってしまいましたが、答えが存在しないことに対してブツブツ言っているだけなのでご了承ください。
こじらでした
じゃ
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コメント
将棋やチェスは序盤の定跡を除けば、ランダム要素が充分にあるので、ゲームとして成り立つ。
スプラトゥーンにおける才能とは、視覚に連動した手先の器用さ。
状況判断力、予測力、ルール・ステージごとの戦い方、自分のブキの特性に沿った動き方、などが時間に比例して上達する部分。
この部分は、漫然とプレイしている奴と、考えながらプレイしている奴で上達にかかる時間が変わってくる。
そして、最後に残るのは視覚に連動した手先の器用さ、という天性の部分。
もちろん、ある程度までは時間をかければ上達するが、この部分は才能の壁を超えられない。
短距離走に向いた筋肉を持って生まれたか、と同じ。
誰でも正しいフォームなどの知識、トレーニングを積めばいくらかは早くなる。が、トップ1%には、そもそもの向き不向きが出てくる。
by ぱっちゃん 2018年5月23日 7:57 AM |
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